どう考えても真の被害者は、
日本でも、ましてやモンゴルでもなく、
朝鮮半島の人々であるυ

●元寇というと、どこからともなく聞きつけたS山先生に「元寇って言うなぁ〜!」とハリセンをかまされるので、言わないように(笑)
「蒙古襲来」と言って下さい。「寇」という漢字はコソ泥とかゲリラとかの意味なので、倭寇は用法合ってるけど、国家間戦争の元との戦いに使うのは間違いです。日本の造語で、日本でしか通じませんし。(今は教科書でも使ってないかな?)
最近色々研究も進んで、モンゴル側は通商を求めていただけ、という見方が定着してきました。
●元と日本は国同士ではもめていても、民間ではそれまでなかったくらいに貿易が活性化していました。(大河ドラマの『北条時宗』でも、戦闘の休みの間は、謝国明はばんばん貿易してたでしょ)
日本は銀が出たのでフビライにとっては魅力的な貿易相手だったでしょうし、イスラム地域との海洋貿易に乗り出していた元は、貿易船が沈むなどの事故もあったので、日本を仲間に入れて、モンゴルのパスポート牌座(パイザ)を見せれば、漂流民が無条件で保護してもらう体制を作りたかったのかもしれません。
対南宋戦でもてこずってましたから、南宋包囲網の意味もあったでしょう。南宋を下したあとの弘安の役では、ほとんど無傷で降伏してきた南宋兵、たくさんいすぎるのは危ないので、海の向こうに捨ててきちゃうつもりで、兵士のほとんどは鋤鍬持っていたそうですし。(だからモンゴルは、10万の軍が海の藻屑と消えても、モンゴルは別に痛くなかった。南宋兵には気の毒だけど・・・υ)
●日本人にはこの事件を使って説明するのが一番分かりやすいと思うので、ちょっとやってみます。
もしも日本(鎌倉幕府)が最初から従っていたら、相互リンク結婚です。時宗に直系の娘や妹がいないので、時輔兄さまの娘が嫁ぐかな。
そして、貞時(時宗の息子)のところへモンゴルのお姫様が正妻各で嫁いで来るでしょう。Myヒツジ持って。
もしも文永の役のときモンゴルが本気だったら、日本はヤバかったかも知れませんが、あそこで占領されてたら、とりあえず時宗が全責任持負って『貴人の死』。
モンゴルでは母が同じなら嫡子で扱われるので、弟の宗政が後釜に座って、貞時ケシクテイ入りで親モンゴル化かな。
もしも弘安の役で占領されてた場合は、北条と名のつく一族皆殺しで、各地に代官(ダルガチ)が置かれてますかね。
歴史にもしもは禁物ですが、こうなってたらどんな歴史が日本に流れていたかなぁと考えるのも、ちょっと面白いです。